2015年3月10日火曜日

My Recommendations No.50 「ハラスのいた日々」

薬品分析学分野教授,田中秀治先生が下記図書をご推薦くださいました。
田中先生,ありがとうございました。

「ハラスのいた日々」
(中野孝次 / 文藝春秋)

本書は,ペット(特に犬)を飼ったことがある,あるいは今飼っているという人にお薦めしたい。
この世に無数に存在している生命(いのち)の中から,偶然か必然か,それとも運命的な出会いか,ただ一つが自分にとってかけがえのない存在になり,時を共有する。そして…やがて悲しい別れの日がやってくる。
犬を飼ったことがある人なら,涙なしには読めないであろう。(サン・テグジュペリ「星の王子さま」のキツネも同様のことを言っているが)人であれ動物であれ,その相手に尽くした「時間」こそが,その存在をこの世でただ一つの大切なものにさせるのだと思う。

書評とともに,愛犬との思い出をつづった手記をお寄せくださいましたのでご紹介します。

トロ
 あれは16歳のときの冬の日だった。通っていた豊中高校から自転車で帰宅すると,母が出てきて「野良犬が入ってきて,ホースで水をかけても出ていかへん」と言った。庭に回ると,ブロック塀際に薄汚れた白い犬がいた。雌犬だった。家の外に追い出したものの,犬は日暮れになっても門の外に座っており,そこから離れようとはしなかった。すがるようなその目を見たとき,私は7年近く前に死んだ「エリ」という名のスピッツを思い出した。何だかエリが生まれ変わって訪ねてきてくれたように思えた。夜になって母が急に熱を出した。このことさえエリの生まれ変わりに水をかけたバチが当たったように感じられた。私は犬を門の内へと迎え入れ,牛乳と焼き鯖を与えた。空腹だったのか,犬はピチャピチャと音を立ててあっという間に牛乳を飲み干し,鯖を平らげた。その時から彼女は家族の一員になった。鳴きもせず,とろ〜とした感じなので,名前は「トロ」にした - 飼い犬になると彼女は豹変し,敏捷でうるさい犬になった。夜中に近所迷惑なほどけたたましく吠えるので,夜は家の中に入れることになった。
 私はトロを溺愛した。トロと毎日散歩するため自宅から通える大学をと思い,京都大学をめざした。大学に入学し,夕陽を受けながらトロと走った春の小径の情景は,私の人生において最も幸福なシーンの一つとして今も胸に焼きついている。本当に自由で幸せな日々だった(今も幸せだと思うが,さまざまな束縛の中で生きざるを得ない)。野良犬として成長したトロは犬小屋には入ろうとせず,庭木の根元に窪みを掘り,そこで休んだ。散歩中にコオロギを見つけると,すばやく口に入れ,満足げに食べた。夜の河川敷で鎖をはずして一瞬目を離した隙に行方不明になったり(1週間後戻ってきた),散歩中に殺鼠剤を食べたのか死にかけたり,出会い頭に土佐犬に噛みつかれてしまったりと,苦い思い出もある − これらのこともあって,後に私が結婚し子供に恵まれたとき,幼な子からは一瞬たりとも目を離さないよう気をつけたし,周囲にも注意を払った。
 悲しいことに,犬の時間は人間のそれよりもはるかに疾く過ぎ去ってゆく。元気に走り回っていたトロも,次第に足腰が衰え,瞳には濁りが生じ始めた。散歩しているときも,「この季節をトロと過ごせるのは今年が最後なのかな」などと考えるようになり,とても哀しかった。27歳のとき,指導教官の転出や教授の退官による教室の変遷の中で自分の存在意義が見いだせなくなっていた私は,大学院を中退し,お誘いいただいた下村 滋 先生(現 名誉教授)がいらっしゃる徳島へと渡ることを決意した。トロには言葉として伝えることができず,心の中でただ詫びるほかなかった。それでもトロは私が婚約する直前まで大阪で生きていてくれた。今は宝塚動物霊園にいる。
 私は,人生には不思議な巡り合わせというものがあると思う。不思議ではあるものの,それは偶然ではなく,因縁というか必然というか,そういうものであるように思う。だから「人との出会いや御縁を大切に」とか「誠実に生きなさい」とか,説教がましいことをここで言う気はなく(書いてしまった...),トロに限って言えば,トロは本当は犬ではなく,大学受験,就職,そして結婚へと至る人生の最も多感で大切な時期において,私の心の支えとして神様が授けて下さった宝物だと信じている。いつの日か,白い野良犬が私の家を訪ねてきて決して立ち去ろうとはしなかったなら,それはきっとトロの生まれ変わりだと思う。その目を見れば,その匂いを感じたなら,私にはそれがトロだとすぐにわかるはずである。でも,トロがいなくなってから18年も経ったのに,まだトロは現れない。今度トロに会えるのは,この世ではなくあの世なのかもしれない。

 (第23回蔵本祭パンフレット学内寄稿(2007)より)

 手記を書かれた当時からさらに月日は経ち,トロがいなくなってから25年半とうかがいましたが,
先生の中のトロという存在は,一緒に過ごした時と何一つ変わらず心の中にいるのだと感じます。

人でも犬でも,一つの命として真剣に向き合う時,かけがえのない絆が生まれるのですね。
そんな出会いを大切にしたいと素直に思えるお話でした。

「ハラスのいた日々」蔵本分館1階,My Recommendationsコーナーに展示中です。
ぜひ手に取ってご覧ください!


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