2015年8月21日金曜日

My Recommendations No.64「悲素」

附属図書館長で,分子薬理学分野教授,吉本勝彦先生が下記図書をご推薦くださいました。
吉本先生,ありがとうございました。

『悲素』
(帚木蓬生 / 新潮社)

書評をお寄せくださいましたので,早速ご紹介します。
ヒ素にまつわる,吉本先生の深い思いが伝わります。

森永乳業徳島工場生産のドライミルクの製造過程において、乳質安定剤(酸化の進んだ粗悪原乳を中和するための添加物)として使用したリン酸水素ナトリウム(Na2HPO4)にヒ素が混入し、飲んだ乳児に発熱、嘔吐、腹部膨満、貧血、肝障害、皮膚の色素沈着などの症状が出現した。死者130人、中毒患者13,000人以上という世界最大規模の健康被害をもたらした森永ヒ素ミルク事件(1955年6月 ~ 8月)から60年になる。事件当初は、「一般の小児疾患の何れにも一致せざる何か特異の疾患」と捉えられていた。その後、岡山大学小児科において、患児がいずれも「森永ドライミルクMF缶」の飲用者であることが明らかにされた。17日後、K講師が「砒素沈着症の皮膚は黒灰色に変ずる。但し頸部、腋窩、乳房、下腹部、陰部に最も顕著である」(中川諭著:症候より見たる内科診断要綱、金原出版)との記載に気づいたことを契機に、翌日、同大学法医学教室がMFミルクからヒ素を検出し、ヒ素中毒であることが確定された(公表8月24日)。これらの症状はヒ素入りミルクの飲用を中止し、解毒薬BALを中心とした治療を開始すると改善が認められた。その後、同年12月に発表された「ほとんど後遺症は心配する必要はないといってよい。」との小児科医を中心とする専門家の判断で、一見落着したかと思われた。
  ところが、1969年に大阪大学衛生学教室丸山博教授らは「14年前の森永MF砒素ミルク中毒患者はその後どうなっているか」の演題名で、67名の被害者のうち50名に何らかの異常が認められることを第27回日本公衆衛生学会総会(岡山市)で発表し、社会問題として再び大きく取上げられた。森永製品の不売買運動や訴訟を経て、1974年に被害者の恒久的な救済を図るため財団法人ひかり協会(現在は公益財団法人)が設立され、事業が今日まで続けられている。

 私は生後4ヶ月の頃に皮膚が黒ずむなどの症状のため近医を受診したが原因不明であった。上記報道後、ミルクの空き缶の製造番号よりヒ素ミルク中毒であることが確診された。徳島大学医学部附属病院小児科も受診したようである。幸いにも私には大きな後遺症は認められないが、現在でも重篤な中枢神経症状に苦しんでいる被害者は少なくない。このように、「ヒ素中毒」は私にとって他人事ではない。

 この「悲素」(ヒ素をもとにした造語)は九州大学医学部衛生学教室の井上尚英名誉教授(本書では沢井直尚教授)をモデルとし、和歌山毒物カレー事件を扱った小説である。この事件は1998年7月、和歌山市で行われた夏祭りにおいて、提供されたカレーに毒物が混入されたものである。カレーを食べた67人が腹痛や吐き気などを訴えて病院に搬送され、4人が死亡した。同年10月に、主婦・林眞須美(本書では小林真由美)が知人男性に対する殺人未遂と保険金詐欺の容疑で、さらにカレーへの三酸化ヒ素(亜ヒ酸)の混入による殺人と殺人未遂の容疑で再逮捕された。

 沢井教授は和歌山県警から依頼され、知人やカレー中毒患者の診断を依頼された。これらの診察結果やカルテ、検査結果の精査から、九大チームはヒ素中毒であることを確診した。急性ヒ素中毒では嘔吐、下痢などの激越な腹部症状、続いて1週間から10日後に末梢神経障害が出現する。この神経障害は、四肢遠位部の筋力低下と感覚障害(じんじんする異常感覚、下肢の振動覚・位置覚の低下)が優位である点に特徴がある。ヒ素による多発神経障害について、タリウム中毒(四肢末端に痛覚過敏、頭部の脱毛が特徴)、ギラン・バレー症候群、慢性炎症性脱髄性多発神経炎、ビタミンB12・B1・B6欠乏症、アルコール性神経障害、鉛中毒、水銀中毒による多発神経障害との鑑別点が明瞭に示されている。神経内科医の観点から、神経症状および神経診察法などが詳しく記載され、単に内科の教科書を読むよりも記憶に残る。森永ヒ素ミルク事件では乳児が対象のためか、これまでの報告に末梢神経障害の記載がないが、存在した可能性があるのか興味がある。

 このほか、公判での検事、弁護人、裁判長による尋問状況も、根拠の提示や確実な論理性が求められるなど興味深い。また、主人公は、松本および地下鉄サリン事件、タリウム混入事件、オウム真理教によるケタミンやチオペンタールを用いた自白強要、スモンについての助言や診断に関与しており、その記述も興味をそそる。

 この小説は保険金詐欺を含めた凶悪事件の経過を示すのみならず、具体的事例を通して中毒学・神経内科学を学ぶことができるお勧めの書である。

  森永ヒ素ミルク中毒事件に関しては、「山田真著、水俣から福島へ: 公害の経験を共有する, 岩波書店 (2014)」(第1章 森永ヒ素ミルク中毒事件、第2章 水俣病、第3章 広島・長崎の原爆、第4章 ビキニ海域水爆実験、第5章 東京電力福島第一原子力発電所事故)を一読することを勧める。

本日より蔵本分館1階のMy Recommendationsコーナーに展示しています。
ぜひご覧ください!












sm